「20世紀中には不可能」と言われた青の光
1962年、米ゼネラル・エレクトリック社の技術者ニック・ホロニアックが世界初の赤色LED(発光ダイオード=半導体に電流を流すと光る素子)を発明します。その後、黄緑色や緑色のLEDも実用化されていきました。しかし、そこから先が長かった。
光の三原色である「赤・緑・青」のうち、青色だけが30年以上、誰の手にも届きませんでした。世界中の大企業、スタンフォード大、MIT、ベル研究所、ソニー、東芝、NEC──そうそうたる頭脳が挑戦し、ことごとく挫折します。1980年代後半、学会の主流意見は「青色LEDは20世紀中には実現不可能」というものでした。
そんな時代に、徳島県阿南市にある従業員数百名の中堅化学メーカーの一技術者が、たった一人でこの問題に挑み始めます。中村修二、当時33歳。日亜化学工業の社員でした。
「死の谷」の真ん中にいた、ある技術者の決断
中村修二が日亜化学に入社したのは1979年。最初の10年間、彼は赤色LEDや赤外線LEDの開発に従事しますが、いずれも先行メーカーの後追い製品で、市場にはほとんど食い込めませんでした。「このままでは、自分のやってきた10年は何だったのか」──中村は強い焦りを感じていました。
1988年、中村は当時の社長・小川信雄に直接面会を申し入れます。
「青色LEDをやらせてください。3億円ください。1年間、米国フロリダ大学に留学させてください」
3億円は、当時の日亜化学の年間利益の相当部分を占める金額です。普通の経営者なら一蹴するところを、創業者の小川信雄はこう答えたと伝えられています。
「やってみなさい」
この一言が、世界の照明史を変えました。創業者の小川信雄自身が叩き上げの技術屋出身で、「中村は信用できる」と直感したと後に語ったとされます。(出典:日本経済新聞「中村修二氏とノーベル賞」関連報道、中村修二著『怒りのブレイクスルー』)
装置を自作し、孤独な3,000回
留学から帰国した中村は、開発の現場で前代未聞の方針を採ります。「装置を全部、自分で作る」というものでした。
当時、青色LED開発の本命材料とされていたのは「ZnSe(セレン化亜鉛)」で、世界中の研究者がここに集中していました。中村が選んだのは、当時「結晶化が難しすぎて使い物にならない」と見放されていた「GaN(窒化ガリウム)」。誰もやらない方向を、たった一人で進む選択です。
GaNの結晶を作るには「MOCVD装置」(有機金属気相成長装置=ガスを使って半導体の薄い膜を作る機械)が必要ですが、市販品では中村の求める性能が出ません。そこで中村は、市販装置を購入したうえで、毎日それを自分で改造し続けました。試作の失敗回数は、本人の述懐で「3,000回を超える」とされます。中村は溶接機を自分で持ち込み、ガス配管を毎日のように変え、ついにはMOCVD装置の心臓部にあたる「ツーフロー構造」と呼ばれる独自構造を発明しました。(出典:中村修二著『怒りのブレイクスルー』)
1993年11月、阿南市の研究室で青の光が灯る
1993年11月、ついに高輝度青色LEDが商品化レベルの輝度で発光します。それまで世界が30年実現できなかった光が、徳島県阿南市の小さな研究室で、ひとつだけ灯ったのです。
翌1994年、日亜化学は世界に先駆けて青色LEDの量産販売を開始。さらに1995年には純緑色LED、1996年には白色LEDの基礎技術を確立し、世界の照明・ディスプレイ市場の構造を一変させます。スマートフォンのバックライト、テレビの液晶、信号機、車のヘッドライト、植物工場の照明──いま私たちの生活を照らしている光の大半は、あの徳島の研究室から始まったのです。
2014年、ノーベル物理学賞
2014年10月7日、スウェーデン王立科学アカデミーは、その年のノーベル物理学賞を青色LEDの発明者3名に授与すると発表しました。受賞者は、赤崎勇(名城大学)、天野浩(名古屋大学)、中村修二(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)の3名です。
受賞理由は「明るく省エネルギーな白色光源を可能にした、効率的な青色発光ダイオードの発明」。ノーベル委員会が異例だったのは、対象とした業績の「実用化」を強調した点です。基礎研究ではなく、現実の照明として人類の生活を変えたことそのものが、受賞理由として明示されました。これは製造業の現場技術者にとって、重要な意味を持ちます。
そして、職務発明訴訟へ
受賞の話題の陰で、もう一つの大きな出来事も日本の製造業に深い問いを残しました。中村修二と日亜化学との「職務発明対価訴訟」です。
2001年、中村は青色LED発明の対価として、200億円の支払いを日亜化学に求めて提訴。2004年、東京地裁は中村に200億円の請求を認める判決を下します。その後、2005年に東京高裁で和解が成立。最終的な和解金は約8億4,000万円とされています。(出典:日本経済新聞 2005年1月12日報道)
この訴訟をきっかけに、日本企業の多くが「職務発明規程」を見直し、発明者への報奨制度を整備するようになりました。技術者が会社に貢献した分は、技術者個人にも還元されるべきだ──この当たり前のことが、日本の製造業に明確に根付いたのは、この訴訟の後と言っても過言ではありません。一方で、訴訟そのものは双方に大きな傷を残し、技術者の独立と組織への忠誠のあいだに難しい問いを投げかけました。
白色LEDが変えた、世界の風景
白色LEDは、青色LEDの光を黄色の蛍光体に当てることで、白く見える光を作り出します。つまり、青色LEDなくして白色LEDは生まれず、白色LEDなくして現代の照明はあり得ません。世界の電力消費に占める照明の比率はおよそ20%とされてきましたが、LED化によりこの数字は大きく下がりつつあります。国際エネルギー機関(IEA)の試算では、世界のすべての照明をLEDに切り替えた場合、CO2排出量を年間数億トン単位で削減できるとされています。
さらに、白色LEDは「明かりが届かなかった地域」を変えました。電源インフラの脆弱な開発途上国の村でも、ソーラーパネルと小さなバッテリーと白色LED一個があれば、夜の読書ができる。これにより教育の機会、医療現場の安全、夜の経済活動が、ガラリと変わりました。中村修二の3,000回の試行錯誤は、結果として、世界中の村の子どもたちの教科書にも光を届けたのです。
「中堅メーカーだからこそ」できたこと
振り返ってみると、中村修二の青色LED発明には、いくつかの「中堅メーカーだからこそ可能だった」要素があります。
第一に、意思決定の速さ。大企業ならば、3億円の研究投資には複数の部署の決裁、稟議書、何度もの役員会議が必要です。日亜化学では、創業者の小川信雄が「やってみなさい」と言った瞬間に決まりました。
第二に、テーマ選択の自由度。大企業の研究員が「世界中の研究者が失敗しているテーマ」をやりたいと言っても、ほぼ確実に却下されます。中堅メーカーだからこそ、そのリスクを取れたのです。
第三に、装置の内製化の自由。大企業の研究所では、装置は購買部門を通じて市販品を発注する文化があります。中村のように毎日装置を改造し続けるスタイルは、組織が大きくなるほど許容されにくくなります。
これらの要素は、現代の日本の中堅・中小製造業にとっても、自社の強みになり得るポイントです。
20代・30代の現場エンジニアへ
中村修二の挑戦が始まった1988年、彼は33歳でした。世界の常識に「不可能」と書かれていたテーマに、地方の中堅メーカーから挑むには、ちょうどよい年齢だったのかもしれません。
いま製造業の現場で「うちの会社は中堅だから」「うちは地方だから」「予算がないから」と感じている若手エンジニアがいたら、中村修二の物語を一度読んでほしいと思います。「これは自分の人生をかける価値があるテーマだ」と本気で信じられるかどうか、それが分岐点です。
もう一つ、中村修二の物語が示すのは「異端であり続ける勇気」です。GaNを選んだことも、装置を自作したことも、当時の常識からはかけ離れていた。それでも彼は自分の選んだ道を曲げなかった。21年の歳月の中で、何度も「やめろ」「ZnSeに乗り換えろ」と言われたはずです。しかし彼は曲げなかった。
中村修二は受賞後、米国の大学に拠点を移し、いまも研究と発信を続けています。彼が日本の若い技術者に向けて語ってきたメッセージは、シンプルです。「自分の好きなテーマを、自分のやり方で、最後までやり抜け」。30年「不可能」と言われ続けたテーマを、地方の中堅メーカーの一技術者が、装置を手作りし、試行錯誤の末に成し遂げた。この事実は、製造業に身を置くすべての若いエンジニアにとって、いまも生きた指標であり続けています。
1993年11月、徳島の研究室に灯った青の光は、いまもあなたのスマートフォンの中で光り続けています。製造業のイノベーションは、いつも「異端の頑固者」から始まるのかもしれません。
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